《終末世界》
驚愕。
明け方近く、
トランスレイトの家からアパートの自室に戻って来た馬数寄屋通(バスキヤ トーリ)は、
玄関前のドアを開け一歩室内に足を踏み入れた途端。
その思いもよらない光景に、長い前髪に隠れた瞳を見開いた。
玄関前に澱んでいた、日の光を知らない冷えた空気が、
ざわとトーリの首筋を舐めて広めのワンルームに侵入する。
生活感の無い、モノトーンで構成された部屋に散乱する衣類。
ヘリーハンセンのショートソックス、着古したネイビーのシャツ、
ダークグレーのボクサーショーツ、最近気に入りのトレーナー。
全て確か帰ってから洗おうと、脱衣籠に入れておいたものだ。
物盗りか?
一瞬そう思ったが、すっきりと配置されたクローゼットや引き出し類は整然とその姿を保ったままだ。
それに、
「…誰だ」
それに、何より。
「あ、はじめまして」
普段あまり使っていない声帯を震わせ、精一杯の威嚇を込めて言葉を紡ぐ。
頭の中の混乱が最高潮に達する。刃物を持っていたら握りしめて突きつけていたかもしれない。
「お前は、誰だ」
物盗りとはこんな風に、間の抜けた笑顔を浮かべるものだろうか。
「はじめまして、『もう一人の僕』」
その、散乱する服の上で青年は笑っていた。
タールのように黒い髪、日によく焼けた、鍛えあげられた褐色の肌。
体とは若干不釣合いな幼い顔付きをしているとは感じるものの、
別段変わった特徴のあるわけではない青年。
奇異なのはその、一糸纏わぬ姿くらいのものだ。
年の頃はトーリと同じか、二、三前後といったところだろう。
「へへ」
溌剌とした表情で、その青年は続けた。
「ごめんなさい、勝手に服散らかしちゃって。
ちょっと着るものが無くてさ、借りようと思ったんだけど…」
唾を呑む。青年の言い分を制止する。
「…待て、俺の質問に答えて、ない」
ばつが悪そうに頭を掻く青年に、
喉の異様な渇きを堪えながら、トーリは狼狽を悟られぬよう鋭く異議を唱えた。
服が無いとは妙なことを言う。
それじゃあこの男はこの部屋に来るまでどうしていたっていうんだ?
まさか裸で外を歩いていたとでもいうのか?
…いや、それよりもおかしいことがある。
トーリの部屋はアパートの二階だ。
アパートは国道から外れているとはいえ住宅街にあり、少ないとはいえ人通りもある。
部屋に入るには玄関を開けるか窓から忍び込む以外に方法は無いが、
自分はいつも外出前に部屋の鍵を閉めたかどうか確認している
(もちろん今日出る前もだ)し、玄関だってついぞ自分自身の手で
『鍵を回して、開けてから入った』ではないか。
そして窓は、
「ッ…!」
男の横を駆け足で通り抜け、木賊色の厚手のカーテンを引きちぎらんかの勢いで開け放つ。
トーリは目を見張った。窓は一枚たりとも割れていないし、
鍵もかかっている。
あと、駄目押しのようにこのアパートはオートロックだ。
それなら…
「お前は」
それなら、この男はどこから自分の部屋に入って来たんだ?
「僕はラング、『壁の向こう』から来たんだ。
…君に、忠告するためにね」
そう言って、褐色の肌を持つ青年は、再度人あたりのいい笑顔を浮かべた。
オーバーフラワー。一者セプトアギンタ。能力者。まがいものの世界。
魔弾の射手。日記。次々と消えていくパラレルワールドの『自分たち』。
どこからが君で、どこからが僕なのか。
●●たのは誰で、●●だのは誰なのか。
ほら、視えるだろう。
終末はそこまで迫っている。